5年前にベルギーの平和運動に参加した。
一日30キロ、10日間で300キロ歩いた。
これは平和市長会議(2020年までに世界から核兵器を廃絶する)に向
けての運動で、ベルギーを横断しながら市長を訪ねてまわり平和市長会議
への参加のサインを集めるというのが趣旨だった。
これに参加したのには3つの理由があった。
ひとつはそのころ自分の写真のスタイルに限界を感じていて、真のドキュ
メンタリストになるにはどうすればいいのかもがいていたこと。
そしてもうひとつは 広島県人として一度きちんとヒロシマに向き合うべき
なのではないかと考えたこと。
広島県人だからヒロシマをテーマにするとは安易な思いつきだが、なんら
かの社会的な視線をもつためには、必ず私的な理由が必要だった。
最後のひとつは、そろそろ会社を辞めたいと思っていたからである。
そんなとき、いいタイミングでスロバキアのヒッピーの友人から
メールが来てこのピースウオークの話を知ったのだった。
会社を辞めてはるばるベルギーまで行って平和のために揚々と闊歩する
つもりで参加したものの、現実は厳しかった。
いきなり初日から歩き過ぎで靴づれとなり2日目には足の裏の皮が剥け
3日目にしてわたしは体力と気力の限界を感じた。
しかも夜はテントである。
いくらわたしがスポーツジムで体を鍛えていたからといっても、筋肉が
あることと歩くことは話が別だった。
そして平和に対する思想のないわたしがひょっこりそんなピースウオ
ークに参加するのは、日芸生が司法試験の会場に行くようなものだった。
もうチンプンカンプンである。
原爆についてなにか聞かれるたびにわたしは自分の考えの未熟さと無知
を思い知った。もう帰りたくて毎晩ほとんど泣いていたにもかかわらず、
わたしの悪い癖で抜けるきっかけが掴めず、ついに 10日間結局最後まで
歩き続けてしまった。
訳が分からないまま 国連前で白い衣装を着てガスマスクをつけての寸劇
や、灯籠流しやデモに参加する自分を冷めた眼で見ていたと思う。
どうであれ、壮絶な思い出である。
その後これらの経験をなにかの形にまとめるべきだったのが、核兵器廃絶
や平和について自分の思想をきちんと言葉や写真に組み立てる力がなく
わたしはこのベルギーでの経験を5年間タンスの中にしまったままだ。
これが漬け物のように、いつかいい味となるのならいいのだけれど。
NYではいま国連で 核拡散防止条約の再検討会議(NPT)が開催されて
いて、あのときのベルギーの仲間がNYに来ている。
ベルギーの活動家のポールはいまや2020平和市長会議を取り仕切る
一人であり、そしてオランダのクリスタはNYのタイムズスクエアのステージ
で「わたしの国は核共有国です。そんな国から来たわたしを許してくださ
い。国の責任はわたしの責任です」と演説した。
そしてさらに思いもよらずあのときベルギーで被爆者として証言した佐藤さ
んにも再会。もう80才だけど5年前と変わらずお元気そうでよかった。
佐藤さんはわたしがポールと同じ平和活動家だと信じている様子で、いつも
どうも話が食い違うのだけれど、自分が佐藤さんが思うほどのジャーナリス
トになれたらどれだけいいかとつくづく思う。
今回の国連の会議に合わせておそらく2000人近くの日本のサポーターや団体
被団協の人たちが日本からNYに集まり平和行進やイベントが行われた。
それぞれ日本人のド根性をみせているかのような衣装だったが、みんな
がいい笑顔で 天気もよく気持ちのいい大行進だったと思う。
わたしもポールに頼まれてその平和行進を撮影。
いい写真を撮らなければいけない時に、期待に応えられるいい写真家にな
りたいが、そういうときにかぎって緊張して手ぶれをする情けないカメラ
マンっているけれど、なんでそれがいつも私なのだろうか。
しかし久しぶりに一生懸命写真を撮っていい運動をした後のような清々しさ
があった。
自分の考えをはっきり持って主張することは難しいが、自分なりに少しだけ
平和について、世界の中の日本について、自分の国のヒロシマについて、
それに関わる自分について考えた一日だった。